Diary of a Perpetual Student

Perpetual Student: A person who remains at university far beyond the normal period

悪しき日にレジリエンスを考える

この4月にブログを新しく作り直したのですが、前のブログの記事の移転がまだできていません。

それはそうと、今日は自分が昔書いたエントリを掘り返して、令和最新版にリファインメントしていこうと思います。

東日本大震災

急に思い出した話を書きます。

7年弱前*1に起きた東日本大震災。 (もうこんなに昔なんですね)

当時僕は中学2年生で、学校の体育館で3年生を送る会を行っていました。 突然の長い揺れ。ガラスの割れる音。

急いで教室に戻りテレビをつけると、大津波警報の文字が。 震源から数百km離れた沼津でも、保護者引き渡しとなりました。 家に帰るための国道は津波警報のため通行止めになりました。

中学の体育館は、新しいものができるまで立ち入り禁止になりました。 仙台の親戚の家は水たまりを残して跡形もなくなりました。 電池などの物資が不足し、大阪の友人が送ってくれました。

震災から1週間経ったある日、 国語の授業のはじめに先生がこんなことを言いました。

「大震災の報道を見て、 非日常に興奮してしまっている自分がいるんじゃないか。 みんなも自問自答してみてほしい。」

この発言は非常に衝撃的でした。 さして当事者でもない僕の気持ちを表現するに どれほど的を射た発言だったでしょうか。

多くの人が亡くなって、 生き残った人も過酷な避難生活を過ごして、 大規模な原発事故も起きて、

そんな状況に自分は興奮しているとするならば、 どれだけ残酷なことだろう、 と子どもながらショックを受けました。

こんなことをメディアで言ったら それこそ津波のような勢いで叩かれるでしょう。 しかしながら、それを的確な言葉で伝えた先生。 この立場だからこそできることだと思います。

不謹慎という言葉だけで片付けられるでしょうか。

ニュースや週刊誌に載っているのは他人の不幸ばかり。

これは人間の真理なのかもしれません。

最後の締めにそれっぽいことを言っていますが、結局何が言いたいのか分からない文章ですね。これは、当時の自分が「じゃあ人々はどうしたら良いのか」という問いに対する回答を明確に持ち合わせていなかったことによります。書いた当人(自分です)は満足しているかもしれませんが、これではただのポエムです。

4年半経った今、自分の思っていることを、解像度を上げて書いていきます。

客観視し、自分を受け入れる(抽象)

僕は医者や心理学者ではないので断定はできませんが、大きなインパクトのある事故や事件に対して、落ち着きのなさを感じるのは心理的反応としておおむね自然なものでしょう。無理して「いつも通りに生きよう」という気持ちにはなれない、もしなれたつもりでも本当にそうなのかは分からないと思います。

レジリエンスという言葉があります。心理学の分野では、自己に不利な状況に自身のライフタスクを対応させる能力を指すそうです。

ja.wikipedia.org

アメリカ心理学会が提唱する「レジリエンスを築く10の方法」のうちに、「変えられない状況を受容する」ことがあります。動揺し興奮した自分を否定せず、生理的現象・事実として許容することが、レジリエンスの面で有効ではないかと考えています。

仕事の話に例える(具体)

Web アプリケーションエンジニアをしていると、多かれ少なかれシステム障害に遭遇することがあります。対応中、当然多くのエンジニアは焦燥感を覚えるでしょう。焦った結果、ミスコミュニケーションが発生したり、判断ミスでより良くない結果をもたらしたり、ストレスを感じ engagement の低下に繋がったりすることになります。

しかし、「焦らないようにしよう」「落ち着いて対応しよう」という TRY が提示されても、それを実現するのは難しいと思います。もちろん、こういった問題への対応は、個人の努力だけに依存せず、仕組みで解決する方向に持っていきたいですね。ただ、理論的にはそうでも、個人の心情問題なので難しいところがあります。

1つの策として、事象を受け入れられない自分や他者を客観視し、受け入れるという方法があるのではないかと思います。これは個人的な経験に基づくものでしかないのですが、自分の感情を一歩外から引いて見つめ、「まあそういうこともあるよね」「人間として自然だね」と事実として受け止めることで、感情の保持者という意識が薄れ落ち着くことができます。「落ち着け」と言って押さえ込むのは、ポジティブフィードバック*2になる可能性があり、制御の観点上望ましくありません。外圧を受け入れしなやかに適応していこうとすることが、無理せず維持できる、あるべき心の持ちようなのではないでしょうか。

最後に

いつかこの話をしようとずっと思っていたのですが、自分の身の回りのあらゆる様子が乱れている今日この頃に、言葉としてまとめておきたかったのでした。そして、この行動自体もまた防衛機制の表れなのかもしれません。

*1:本エントリ執筆は2017年12月20日です

*2:前向きな内容を相手に伝えるという意味ではありません: ポジティブフィードバック - Wikipedia